
KUMAJoeは今まで広い分野について10年以上様々なスキルアップを目指して日々勉強をしてきました。
それは、ビジネスに関するスキルであったり、投資であったり、複業についてであったりします。
そんななかで感じたことがあって、それは何かのスキルについて学ぶにあたって、実際の成功事例を知ることがとても有効だということです。
そこで思いついたのが、この【偉人×スキル】です。
この記事では、実際に何か突き抜けた能力をもって活躍した偉人達のエピソードを、そのスキルと共にわかりやすくご紹介していきます。
その成功事例を知ることによって、今後のスキルアップ、モチベーションアップに活かして頂ければと思います。
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この記事はこんな人におすすめ
- プロジェクト完了に向けて、組織を率いてリーダーシップを発揮していきたい
- 今の組織をどうにか改革したいが、何からすれば良いかわからない
- すでに組織の改革に着手しているが、本当に自分が正しいのか不安になることがある

ナイチンゲール×組織改革
「この会社は、このままではいけない。」
社会人として過ごしている中で、多くの人がそんな思いを持つ事があるのではないでしょうか。
例えば「競合他社の圧力は強く、変化が必要な時なのに、社内の空気は緩んだままで危機感を共有してもらえない」
そんな、とにかく何かをしなければならないが、自分一人の力で組織を変えることは難しいという時。
そこで、今回とりあげるのはナイチンゲールです。
優しく慈愛あふれる看護婦としてのイメージが強い彼女ですが、実は、時に豪腕ともいえる力強さで当時の社会や病院組織の常識を打ち破って改革を成し遂げたという人物なのです。
ポイント
組織改革を目指す時、彼女の人生から学ぶことは多いはずです。
資産家の令嬢として生まれて

フローレンス・ナイチンゲールの足跡と考えを理解するには、まずその背景を知っていだたく必要があります。そこでまずは彼女の生い立ちから紹介します。
フローレンスはイギリスの裕福な家庭に生まれました。六頭立ての馬車を仕立てて一年かけてヨーロッパ中を家族旅行ができるほどの資産のある家です。
父親は女性の教育にも寛容な人で、フローレンスは各国の外国語や哲学、歴史といった科目を楽しみながら勉強していました。
暮らしの面では不自由なく過ごしていたフローレンスでしたが、「リネン類とガラス食器に埋もれて」良家の子女として型通りの人生を過ごすことに漠然とした不安を抱いていました。
その不安が明確な形を取り始めたのは、スイスジュネーブで政治難民を見て、苦しみに満ちた世界があることを知った時です。
20歳になったフローレンスが、数学を勉強したい、培った能力で世の中に貢献したいと言うと、父親は娘の教育を失敗したと考えたようです。
当時、イギリス、ヴィクトリア朝の社会では、上流階級の女性に期待される役割とは、多くの使用人を束ねて家庭内を取り仕切るというもので、高い教育を受けた女性が活躍できるような役割は存在していませんでした。
彼女は複数の男性からのプロポーズを断ります。結婚ということについて、彼女はこのようなことを記しています。
「しかるべき相手からプロポーズされた場合に断る理由はまったくない――そんなふうには、私自身は思わない…神は、ある女性が結婚するように定められておられるかも知れない。しかしその一方、ある女性が独身を通すように定めてもおられるのだ
(エドワード・クック『ナイティンゲールその生涯と思想』時空出版 143p)」
看護婦という職業

当時の病院には、今日では当たり前になっている衛生観念といったものがありませんでした。
病院とは暗くて不潔なところで、そんな環境で働くような人間なのだから、看護婦という人種もまともな人間ではないという扱いを受けていました。
看護婦の一般的なイメージは、大酒飲みでいいかげん、ふしだらな女性といったものでした。
ナイチンゲール家の人々が、病院で働きたいというフローレンスの希望に強い反対を示したのはこういった理由もありました。
しかし、フローレンスは家族の反対を押し切って、ドイツのカイザースヴェルトやパリの「神の摂理の家」で看護婦としての訓練を受けます。
病院の改革

1853年、フローレンスはロンドンの「病気の貧しい女性を世話する協会」の指導監督者という、生涯で最初の仕事につきました。
ここがフローレンスの人生の転換点になりました。
フローレンスのやり方は、それまでの病院の常識をひっくり返すようなものでした。
各階にお湯を配備したり、調理場から食事が運べるようにリフトを設置したりしました。
それらすべての改革が、綿密な調査に基づいた計画に基づいており、データの裏付けがあることでした。
看護婦として働くことについて、家族の理解は相変わらず得られないままでしたが、フローレンスが手がけた改革はうまく機能して、彼女は病院運営のプロフェッショナルとして知られるようになりました。
クリミア戦争

1854年、イギリスが属した同盟軍とロシアが戦ったクリミア戦争が勃発し、ロンドンタイムスの特派員による報告で、戦況と傷病兵たちの状況の悲惨さが本国イギリスに伝えられました。
こうした中、フローレンスの病院運営の手腕を知るシドニー・ハーバート軍務大臣が、フローレンスに戦地の病院の建て直しを依頼します。
こうしてフローレンスは女性看護婦総監督として、38人の看護婦をつれてスクタリ野戦病院に赴任します。
戦地での任務は簡単ではありませんでした。
女性が一人で活躍するということがまだ一般的ではなく、しかも看護婦という職業が尊敬に値するものとは思われていなかった当時のことです。
軍医たちの中にも、看護婦たちを受け入れる者もあれば露骨な敵意を示す者もありました。
傷病兵は病院のキャパシティを超えて次々と担ぎ込まれてきますが、軍隊組織の中では何をするにしても書類や手続きが必要であり、フローレンスは無用の対立を避けるために、慎重に振る舞う必要がありました。
表向き、フローレンスは看護婦たちを束ねる総婦長という立場でしたが、いつしか彼女は「絶対権力をもつ女王のように何もかも思いどおりに運んでいる(スターリング大佐)」ようになりました。
結果として、フローレンスがスクタリに到着した直後、負傷兵の死亡率は約42%に達しましたが、食事の改善を始めとする取り組みにより、一年も経たないうちに死亡率は2%にまで減少しました。
はてな
いったいどのようにして彼女は困難な状況を克服することができたのでしょうか?
その要因は、彼女の内と外、両方に求めることができます。
内側の力とは、彼女自身に内在していた看護に関する知識と、必要なことをなんとしても成し遂げるという意志の力です。
そして、外側の力とは、彼女を取り巻く人々が彼女に進んで協力したということです。
彼女は本国に大臣という強い味方をもっていました。戦地で何が起こっていて何が必要であるかを、フローレンスは大臣に直接伝えることができたのです。
本国の大臣がフローレンスの後ろ盾になって協力してくれたのは、病院運営に関する彼女の手腕を高く評価していたということもありますが、なによりも彼女個人の人柄に対する信頼があったためです。
もちろん、大臣の個人的な信頼だけでは不足ですから、第三者の支持を得るための統計的なデータをフローレンスが用意したということも忘れてはいけません。
そして、フローレンスは大臣を通じて女王の言葉をも背後につけることができました。本国で高い地位を占める人たちの異例ともいえる厚遇を得ることで、フローレンスは大きな改革を成し遂げることができたのです。
まとめ
クリミア戦争当時における、当時の常識からすれば考えられないほどのフローレンス・ナイチンゲールの活躍と成功、組織変革は、二つの要因によって支えられていました。
・1つは、彼女のたゆまぬ努力とそれを支える意志の力。
・もう1つは、そんな彼女を支える周囲の協力です。
慈愛溢れる看護婦というイメージで知られるフローレンス・ナイチンゲールですが、実際はデータや外交的駆け引きを駆使することで、彼女は成功をたぐり寄せていたのです。
ぜひそんな彼女のエピソードをあなたの組織改革に活かしてみて下さい。
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